05.08.01
「ドキュメンタリー 耳鳴り ある被爆者の20年 」(1965年11月28日放送)
経験なしには語れない。
今日、新聞を見たら、被爆者団体が、被爆者以外に参加を容認したという見出しを見た。 もはや、経験を生の声で、伝えていくのには、それだけの月日を費やしたということか。
この放送は体験をうたに綴ることをつづけた広島の被爆者の亡くなるまでの最後の数ヶ月を記録したものである。中心となるのはその綴ることばなのだが、それは、友人の気持ちの代弁であったり、励ましであったり。何よりも印象的なのは「たくさんの人が死んでいった」ということばが、数回、本人の口から、繰り返し語られることだ。それは、流れの中では、様々な状況を語っているのだが、それは、がんの手術を受けて亡くなった人が多いということやら、しかし、どうも、同じことを言っているように思えるのだ。
最初に言ったとおりに、もはや、この50年余の月日は語りべたる人々を失うという、新たな時代へとなったということだが、これから、この国も、被爆という体験も、何処へか辿るのかは、いま、生きていく人間にかかっているのだと、実感する、もちろん、自分も。
「ドキュメンタリー あの子・原子野に生きた37人」(1980年8月9日放送)
もう一つは長崎の話。なぜ、原爆は2つの都市に落とされたのだろうか。まるで、ソドムとゴモラように。すくなくとも、そこに住んでいた人間はそうなるほど罪を犯したとは思えないのだが。
長崎市 浦上にある爆心地に一番近かった学校である山里小学校の 小学生達が綴った文集「原子雲のもとに生きて」を手がかりに、
成長した子供達を訪ねるドキュメンタリー。それぞれの「それから」が綴られていく。見ていくうちにいやになるほど、いやになってくる。みな、不平不満などもらさない。起こったことはしょうがないというほどの印象すら感じる。そのうちに秘めているものを除いては。被爆したことに対して、肉親をなくしたことに対して、世間の偏見に対して感情を出すことなくただ寡黙に、当時のことを語る。その中に垣間見る小さな悲鳴のような、なおりの悪い傷口のようなきりきりとすることばと、ことばの間の空白。なんと、控えめなことか、自分のイデオロギーを多く語るどこぞの人に比べると。ほんといやになってくる。
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