• シリーズ「戦争の記憶を伝える」が放送されています。例年、この時期になると、特集されるテーマですが、現在の特集と見比べるのも面白そうです。
  • 9月はいろいろ、あって放送もままならなかったようですが、10月はテーマが「熱き時代に」と決定して、7日は山口百恵、篠山紀信関係のN特を放送するそうです。楽しみ。

 

 


05.08.01
「ドキュメンタリー 耳鳴り ある被爆者の20年 」(1965年11月28日放送)

経験なしには語れない。
今日、新聞を見たら、被爆者団体が、被爆者以外に参加を容認したという見出しを見た。 もはや、経験を生の声で、伝えていくのには、それだけの月日を費やしたということか。

この放送は体験をうたに綴ることをつづけた広島の被爆者の亡くなるまでの最後の数ヶ月を記録したものである。中心となるのはその綴ることばなのだが、それは、友人の気持ちの代弁であったり、励ましであったり。何よりも印象的なのは「たくさんの人が死んでいった」ということばが、数回、本人の口から、繰り返し語られることだ。それは、流れの中では、様々な状況を語っているのだが、それは、がんの手術を受けて亡くなった人が多いということやら、しかし、どうも、同じことを言っているように思えるのだ。

最初に言ったとおりに、もはや、この50年余の月日は語りべたる人々を失うという、新たな時代へとなったということだが、これから、この国も、被爆という体験も、何処へか辿るのかは、いま、生きていく人間にかかっているのだと、実感する、もちろん、自分も。

 

「ドキュメンタリー あの子・原子野に生きた37人」(1980年8月9日放送)

もう一つは長崎の話。なぜ、原爆は2つの都市に落とされたのだろうか。まるで、ソドムとゴモラように。すくなくとも、そこに住んでいた人間はそうなるほど罪を犯したとは思えないのだが。

長崎市 浦上にある爆心地に一番近かった学校である山里小学校の 小学生達が綴った文集「原子雲のもとに生きて」を手がかりに、 成長した子供達を訪ねるドキュメンタリー。それぞれの「それから」が綴られていく。見ていくうちにいやになるほど、いやになってくる。みな、不平不満などもらさない。起こったことはしょうがないというほどの印象すら感じる。そのうちに秘めているものを除いては。被爆したことに対して、肉親をなくしたことに対して、世間の偏見に対して感情を出すことなくただ寡黙に、当時のことを語る。その中に垣間見る小さな悲鳴のような、なおりの悪い傷口のようなきりきりとすることばと、ことばの間の空白。なんと、控えめなことか、自分のイデオロギーを多く語るどこぞの人に比べると。ほんといやになってくる。

 


15.07.01 「ドキュメンタリー 富谷国民学校」(1969年8月29日放送)

をはり。
こうして、 映写会は締めくくられた。

この放送は集団疎開について撮影されたフィルムを復活させ、そこから映し出された映像と、現在もある富谷小学校の新入生と、その親であり、当時、児童として、集団疎開した人々の記録である。
描かれているのは淡々とした事実の羅列であり、何かを強く主張するものではない。特に、戦時中の教育のあり方というものについては軽くふれるにとどまっている。集団疎開の記録となれば、つらいものの連続である。もちろん、この記録もまた、つらい話である。
ただ、楽しいこと、うれしいこと、喜ばしいことを観たり聞いたりすることは楽だが、最近、周囲の人間が、「つらい話なんて、つらいだけで、 観る気がしない。」という話をしていたが、それでいいのか、理由はわからないが、ふと、そう思ったりした。戦争のそういった話はつまりは戦いに勝利した話とか、もし、つらい話に顔を背けるようであったら、それは戦時中、政府が、戦局を覆い隠し、あたかも、日本が優勢のようにコントロールしているのと大差ない。
ゆえに、今だからこそ、そのつらい話に、くどいくらいに繰り返し見ていく必要があると、この事実の羅列は語ってくるように思うのである。たとえ、それが自分を傷つけることであっても。

//もちろん、わたしは戦後生まれで、戦中の経験などない。瓦礫と言ったら、阪神淡路大震災を思い出すくらいだ。それも、当事者ではない。俯瞰して、或いは間近に第三者として、見ただけである。それでも、無駄に多くのことばで綴りたい。何か、そう思う今日この頃なのである。

 


Last updated on Wednesday, 03-Oct-2001 00:47:32 JST
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