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エンベロープス 〜映画「セントラル・ステーション」に寄せて

 

 

 ▼映画「セントラル・ステーション」。ブラジルの映画。切実が積み重なった郵便的ロード・ムーヴィ。どこへ着くのか、解らない手紙のような旅行が、始まる。少年は失ったモノを探し、老女は失うことにおびえる。この映画はブラジルそのものだ。ブラジルの風景、ブラジルの駅、ブラジルのバス。そしてブラジル。そう、ブラジル、リアルなブラジル。外のブラジル。うちにはないブラジル。ブラジルの時間。ブラジルの太陽。そして、ブラジルの人々。切実なる人々。「文字」を介してでしか伝えることの出来ぬ「言葉」、しかし「文字」をもてない、そんな人々の切実。その切実を踏みにじる、黙殺する。それが、この映画に登場する主人公の一人、ドーラだ。ドーラは駅で、人の言葉を手紙に書き、それを、おくる仕事、代書屋である。しかし彼女はその手紙をまるで紙屑のように捨て、黙殺する、まるで、自分の「切実」におびえるように。そんな彼女が少年と旅にでる、追手から逃げるため、少年の夢探し、居場所(アイデンティティ)探しに。彼女にとってその旅は「失う」旅であった。失うことを恐れ、切実と対面しなかった、ドーラは「失う」を受け入れる。それは旅が彼女を変えたのではない。きっかけではあってもそれはやはり「切実」を内在している階層の違うコンスタティヴであって何も語りかけないからだ。自分と対面すること、他者との対面が、ドーラを変えた、そう思うのである。人と対面することは切実である。それは、出会い、別れるからだ。しかし、この物語の別れは幸福な出会いであった。・・・「失う」ことは同時に、新たなる「生活」の始まりでもあるから。失うことを恐れず、生きていくこと、なにかを切り開くこと、切実とはつまり、これの繰り返しを記した手紙、到着しにくい自分宛の手紙ではないだろうか?手紙は投函されたばかりだ。この物語は終わり、始まった。


 

最終楽章の先に見えるモノ 〜映画「ビヨンドサイレンス」に寄せて

 

 

 ▼映画「ビヨンドサイレンス」は昨年、国内で上映されたドイツ映画でカロリーヌ・リンクという女性監督の長編処女作品です。ドイツ本国だけでなく日本国内でも非常に評価を得ているので、ご存知の方も多いと思われます。もちろん個人的に昨年観た映画のなかで、特に印象的な作品です。何故、その映画について、一年近くたった今、触れることになったかと言えば、それはGiora Feidman というクラリネット奏者のCDを聴く機会に出会ったからです。この奏者の詳細は全くもって知らないのですが、映画のなかで、終盤、主人公のララ に何らかのディレクションを与えるかたちで、劇中の演奏会で演奏しているのです。ララが、なにかしらのエネルギーを彼の音楽から感じとったのと同じように自分の心に訴えかける「なにか」かをもっている彼の音楽を、レナード・バーンスタインは、ソール・ミュージックと評しています。今、彼の音楽に再び触れ、もう一度、この映画「ビヨンドサイレンス」について考えようと思ったのです。
▼さて、この映画は音楽の道へと進もうとする娘ララと、ろう者故に、音楽を解さない父親とのある種の異文化の葛藤を軸に描かれています。その中で、2人の会話で、とても印象深い場面があります。それは雪が降る音を父親がララに聴くシーン。雪がすべての音を包みこむように沈黙の世界を形作る。そんな雪が好きだと父親は言います。そこで、沈黙が単に、無音状態でないことを私は感じました。そして、沈黙はそれ自体、音楽となりうることも。ですから、自分の聴くことの出来ない音楽を理解できないと言う父親の言い分が……
▼さて、ララですが、当然、聴者であるわけですから、有音の世界に住んでいます。しかし、両親とのやりとりは手話で行っている。父親との対立のなかで、手話というモノを、ろう者独自の文化を否定する、しかし、その中で、逆に手話の世界:沈黙の世界というモノへと、興味を寄せずにいられない。どうもうまく表現できませんが、この、どちらの世界でも行き来できるという存在ということが「ララの寂しさ」なのではないか。どちらにも属している故の無所属感、なにかの隙間を浮遊するような感覚。その何者でもないというのが徐々に人との交流のなかで、「聴者としてのララ」、「ろう者としてのララ」を確立していっているように思います。さらにその二者を結合させる何者かへ。ラストシーンでララのオーディションの演奏を父親が聴くというシーンがありますが、そのときすでにそれは成されていると思います。父親はそのとき、音楽を感じることが出来たのでしょうか?音を奏でることによって生み出される音楽とは違った音楽がそこには誕生したかに思えます。そしてそれはまだヨチヨチ歩きの頼りのないモノであるでしょう、しかしそれは今も続いているのです。
▼最後に、ララのようなろう者の親の元に生まれ育った聴こえる「子ども」のことを"Children of Deaf Adults : CODA";コーダと呼ぶのだそうです。そしてこのコーダの人々は今、「ろう者」と「聴者」の橋渡しとしての存在としてだけではなく、コーダとしての主張をする運動もでてきているそうです。私を含め、この三者の間で、さらに新しい、そして、雪のようにすべてを沈黙させてくれる音楽が誕生するのを期待するばかりです。


 

山形ドキュメンタリー映画祭について

 

1989年10月、開 催されて以来、2年に一度世界の映画作家たちが新作・旧作を発表している映画祭です。この映画祭は世界の新しい作品を上映するだけでなく、招待作品、審査員作品など、様々な作品を上映し、特にア ジアの作家たちによるインディペンデント映画、ノンフィクション映画を公開し、交流の場となっています。また、 山形県牧野村を拠点に長年映画作りをされた故小川紳介監督にちなんだ賞などが、アジアの作品を対象にもうけられています。映画祭の期間中、山形市内 は監督、全国の映画ファンなどが入り乱れ、映画の話題で、盛り上がっています。そんな山形国際ドキュメンタリー映画祭が今年、第6回目をむかえ、10月19日から25日の一週間 に開催することになっています。映画祭のプレ・イベントも企画され、3月にはワイズマン監督の「バレエ」が上映されました。ここでは映画祭に関連することを様々紹介していこうと思っています。

また、詳しい情報は山形ドキュメンタリー映画祭のホームページもありますので、そちらをどうぞ。

 


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